2021-08-08 オリンピック開会/閉会式メモ
開会式。
まず、最初のルームランナー上を走るひとだけが暗い会場で照らされて始まるシーンから想起するのは、オハッド・ナハリンの『Last work』である。いや、あれはロックダウンで室内での運動を余儀なくされたという表現だよと言われたらそれはそうなのだろう。でもダンサーならつい最近に公開されたこの印象的なシーンを思い起こさないひとはいないのではないか。 私が作家なら、そういうイメージは避けるだろう。
そうこう考えているうちにぱらぱらと画面上の人間が増えてゆくのだけれど、見えてくる空間が薄いままで、厚みを増してゆかない。人数が増えれば増えるほど、見ているこちらの感覚が拡散していく。
派手で軽い電飾の色、密度と厚みのない動き、画面のどこに重心を置いて見たら良いかがわからない。
かといって混沌としている、というほどの爆発があるわけでもない。
そういう時間がかなり長いこと続く。
同じ強度、同じスピード、同じ感触がずっと薄いまま続くから、だんだん目が何も捉えないようになってゆく。
立体感は物としての立体を建て込まなくても表現することができる。
人数が少なくても存在の密度や視線の操作でボリュームを作ることはできる。
予算が潤沢になくても、工夫次第で世界観をつくりこむことはできる。小劇場と違って炎だって水だって土だってなんだって使える場所だし、大木とか船とか大きなものだって持ち込める。
光や影を利用して空間に魔法をかけることもできる。奥行きを作ったり、あるはずの空間をないものとしたり、逆にある空間を無いものとしたり、小さなものを大きく見せたり。
じっさい、光は潤沢に使われていて空間を満たそうとしていたけれど、手触りの薄い電光掲示板のようなテカテカした光ばかり。「クールジャパン」のようなものに通じる感覚なのかもしれないけれど、でもだとしたらいつまでそこにしがみついているんだろう。研ぎ澄まされた人の体を讃えようという大会と、無機的でバーチャルなものはあまり相性が良くない気がするのはただの私の個人的感想だけれど。
でもとにかくこんなに潤沢に光にお金をかけられるのにもったいないな…。
光は平面に当ててそこに絵や文字を描くだけが用途じゃない。多くの照明家はそういうことをよく知っているはず。
これは全く私の勝手な思いなのだけれど、そもそもLEDの光が本当に好きになれない。
近年は舞台の灯体もLEDに入れ替えられていっている。LEDに照らされるものは一様にのっぺりして、陰影や粒子や香りが失われる。時間感覚すら変わってしまう。
舞台作品は空間や時間の芸術でもあって、空間や時間をつくるには光の操作が欠かせない。光ひとつで興ざめさせられてしまうこともあれば、光ひとつで息を呑むような化け方をすることだってある。
踊っているダンサーひとりひとりの良さがそこにあったとしても、個人的にはそこにはうまくたどり着けなかった。大きな空間に負けまいと体の表面いっぱいに表情を貼り付けて踊るダンサーたちがアップになるたび、この大勢のダンサーをいったいどう使えば良いものになったのだろうと考え込む。
もしかしたら中劇場くらいならボリュームのあるものに見せることができたのかもしれない。あるいは。
空間にはその広さや高さや質感に見合った使い方や見せ方がある。音の使い方もしかり。
しかも今回はTV放送しかされないと決まっているのだから、もうすこしTV放送に向けての演出とうまく組み合わせてつくるとかできなかったのかな。時間がなかったのか。
ピクトくん?は、小林賢太郎TVの最後のコーナーの、制限のある無理難題をアイデアで突破してゆく小林賢太郎をわくわくしながら見ている私のような人間には微笑ましいものになるかもしれなかったが、鍛え抜かれた体をこれから見ようというオリンピックの前座としてはパフォーマンスの完成度が低く、いかにも雑であった。 -
私は自分の感覚がとても偏っていることを知っているので同業者にすら共感してもらえないと知りつつ書くけれど、最近の作品で(舞台も他の芸術も)心から良いと思えるものがほとんど無い。
トレイラーを見て「これは面白そう」と期待しても、舞台を見てみると肩透かしを食らうようなものばかり。
ダンサーの身体能力や基本的な技術は上がっているが、そういう人間離れした動きや日常から乖離した感情の発露の羅列を見たいわけじゃない。
そういうものを見るのも楽しかろうし、また、スパイスとして使われるのは作品を活かすとも思うけれど。
私がみたいのは、いつも素朴に、そのひとがどう作品というかたちをとって世界を描くか、だ。
作家やダンサーがどうそのことと対峙して、観察して、そこから持ち帰った感触をわたしに伝えてくれるか。
そのことからしか、私の中にもまた世界が描かれるということは、起きない。
ファッショナブルで見目麗しく、目まぐるしくきらびやかなシーンの切り貼り、こちらの情動を促すような切ない音楽や表情、こちらの心臓を反射的にあげてゆくようなリズム…そういうものは、いっときは胸が躍るものかもしれないし表面的な喜怒哀楽を揺らすものではあろう。
でも、もっと底しれぬ部分を掴み、揺さぶるようなもの、自分の見てきたものをちょっとずらされてそのあとずっとそれについて考えてしまうようなもの、そういう長い時間体内に居残るようなものが見たい。
最近のTwitterやYouTube文化が生んだことだと思うけれど、ひとつの作品にあらゆる薄いものごとを短い時間の単位で詰めすぎる。
ひとつのシーンが自ら語り出すまで待たない。
香りがこぼれてくるまでそのままにしておけない。
観客がそれぞれ自分のからだで歌おうとし、このさきのじかんにおもいを馳せるまでの隙を与えてくれない。
トレーラーだとうまく切り抜いてあるのでなんだかセンスの良いものに見えるんだけど、本編もトレーラーの延長のように余韻も色気もなく詰め込まれて、ただ目まぐるしく体とシーンが軽薄に流れていく。ヒステリーみたいだ。
なんの対話も感じられない。
自分から離れて遠くまで旅するような体験もない。
日本だけじゃなくて世界的な問題だと思うけれど、ダンス作品を作れる人が少ないなと思う。
踊れる人はたくさんいるのに、それを作品のなかで扱う側が人間のからだというものを見ようとしない作品ばかり作る。
ダンサーはみんなびっくりするような動きができて「わーすごい!」とは言わせてくれても、目のあたりにして思わず声を失ってしまうような存在感を持つひとが少なくなった。
そういうひとはもちろんどこかにいると思う。多くはないとは思うけれど、いるはず。
でも出てこれない。
需要がないから。
ダンスが踊れたりダンスを勉強したひとよりも、画家や彫刻家のほうが舞台を作るのに向いているような気がする。もしかしたら建築家とかも。
空間に出現させたいビジュアルを描くことをしてきているひとのほうが、単に踊れるひとよりも、良い空間を作る。
最近は身体を使う劇作家も面白いものを作るひとが増えた。
ダンスは数十年前からやっと他の美術と同等に語られるようになったけれど、まだまだ抜け落ちている部分があるのかもしれない。
https://vimeo.com/72306608
(パパイオアヌーは舞台演出家としてはちょっとがっかりさせられた部分もあるのだけれど)
ああいう作品と今回のものが並び比べられるのだということを、制作陣はどう感じているんだろう。
それとももしかしたら、差がわからないのかもしれないな。
致命的なことだ。
パパイオアヌーといえば私はこの演出がすごく好き。(一時期これをずっとオリンピック開会式だったと覚え違いしてた)
このひとはもともと画家であることもあって、画面の構成力がある。
5分くらいの影の使い方とかシンプルなのにとても効果的。
https://vimeo.com/135839020
芸術は、とりあえず形になったら完成、ではない。
その先に、ひとつひとつの要素がそれぞれの感触を持ち始めるのを待ったり、育てたり、削ったりする時間が要る。ある感覚を得るために0.5秒の操作をし、1cm光をずらす、という細かい作業をしてやっと自分が見てみたかった世界があらわれることがある。あらわれないことには自分の作品にはならない。でも逆に言えば、それさえちゃんとできていれば、ちゃんとそのひとのものになる。斬新なアイデアとか固有のアイデアは必ずしも必要ない。
表現をするひとは、他のなにかを通して(画家なら色や対象物だろうし彫刻家なら石や木だろうしダンサーなら体という他者だ)なにかに行き着こうと耳を澄まし、目をこらす。その作業の中で自分という入り口から人間というものについて考える。
私がオリンピックの開会式や閉会式を見ていられないと思ったのは、これをつくったひとがまったく人間の感覚をなめているというふうにおもったから。
そして、こんなやり方でものづくりの業界が牛耳られているとしたら、本当に才能のある人間は埋もれていってしまう。
食えないけれどそのことをずっと続けて創り続けるようなことが現在の世の中の仕組みのなかではむずかしい。
昔は芸術で食えなくてもなんとかなるみたいなところがあったけれど…。
それは世界の側からも損失であるから、やはり見る目や矜持のない人ががあまりにも大きな権限を持ちすぎてはいけないと思う。
コネとか利権が関わるとろくなことにならないものはいくらもあるが、文化はその筆頭だろう。
あれを出せとかこれを追加しろとかこのひとを使えとか、そんなことに忖度しながら作品など作れるわけがない。
コマーシャルとか広告とは成り立ちが違うんだから。
多くの友人が関わったり出演していたし、おそらく色んな思いがあって、時には思い通りにいかないこともたくさんあって、それでも大きな決心を持って出演したのだろうことは想像に難くないのでこんな風に酷評する必要もない、もうすでに多くの批評があるわけだし、とも思ったが…
まあここにひっそりと残しておく。